デリバティブを奏でる男たち【94】 スミス・ニューコートの流れを汲むニュースミス(前編)
今回は第92回の後編で少しだけ触れた英国の投資会社、ニュースミス・キャピタル・パートナーズを取り上げます。この会社は2003年にマイケル・ジョン・ポール・マークス(Michael John Paul Marks)とポール・デビッド・ロイ(Paul David Roy)、スティーブン・アンソニー・ジマーマン(Stephen Anthony Zimmerman)、チェック・キアン・ロウ(Check Kian Low)、ロナルド・ジョセフ・カールソン(Ronald Joseph Carlson)の5人によって創設されました。第92回の後編は以下をご参照ください。
▼デリバティブを奏でる男たち【92】 受け継がれるマーキュリーのDNA(後編)
https://fu.minkabu.jp/column/2556
◆スミス・ニューコートはメリルリンチが買収
1941年生まれのマイケル・ジョン・ポール・マークスは、16歳でロンドンのストック・ジョバー(値付け業者)、スミス・ブラザーズ(後のスミス・ニューコート)で働き始めました。最初は見習いであるメッセンジャーから始め、次にパートナーの手足となって取引所を走り回るランナーである「青ボタン」に昇格し、1975年にはディレクターに任じられます。1980年代にスミス・ブラザーズは、株式仲買人のフィールディング・ニューソン・スミスと合併し、スミス・ニューコートとなりました。1987年にネイサン・メイアー・ロスチャイルドがスミス・ニューコートの株式を取得したとき、マークスは同社の最高経営責任者(CEO)に就きます。
マークスは1995年に、マイケル・ジョン・ド・ルージュモン・リチャードソン卿(Sir Michael John de Rougemont Richardson、1925-2003)から会長職を引き継ぎます。リチャードソン卿は以前、ロンドンの名門投資銀行N・M・ロスチャイルド&サンズのマネージング・ディレクターを務め、マーガレット・サッチャーの非公式アドバイザーでもありました。通商「ミスター民営化(Privatisation)」と呼ばれた活発なフリーメイソン(世界最古の友愛組織)だったといわれています。
会長職を引き受けたマークスは、すぐに当時の英国で最大の独立系株式ブローカーとなっていたスミス・ニューコートを、米名門投資銀行だったメリルリンチ(2008年に経営破綻し、バンク・オブ・アメリカ<BAC>が救済買収)に5.26億ポンドで売却します。このときスミス・ニューコート株の26%を保有していたロスチャイルドは、1億ポンド近くの利益を上げたと推定されています。その後にマークスはメリルリンチの欧州責任者となり、米国以外では同行初の執行副社長となりました。しかし、2003年に退職し、ニュースミスを創設します。
◆ロイとジマーマン
1947年生まれのポール・デビッド・ロイは、英リバプール大学で経済学の学位を取得した後、1974年から1977年までロンドンを拠点とする株式仲買人のモートン・ブラザーズのパートナーを務め、1982年に株式仲買人のケンプ・ジーでシニア・パートナーに転職しました。その後にケンプ・ジーは株式仲買人のシティコープ・スクリムジャー・ビッカーズに買収された(事実上買収したのはケンプ・ジー側との見方もあります)後、ロイはシティコープ・スクリムジャー・ビッカーズのマネージング・ディレクターに就任します。
その後にシティコープが破綻したため、ロイは1988年にマークスがCEOを務めるスミス・ニューコートに身を寄せ、共同CEOとなりました。メリルリンチと合併した後は、ヨーロッパおよびグローバルレベルで数々の上級管理職を歴任し、最終的にはメリルリンチ・グローバル・マーケッツ・アンド・インベストメント・バンキングのエグゼクティブ・バイス・プレジデント兼共同プレジデントに就任します。しかし、2003年に退職し、ニュースミスの創設に加わります。
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証券会社で株式やデリバティブなどのトレーダー、ディーラーを経て調査部門に従事。マーケット分析のキャリアは20年以上に及ぶ。株式を中心に債券、為替、商品など、グローバル・マーケットのテクニカル・需給分析から、それらに影響を及ぼすファンダメンタルズ分析に至るまで、カバーしている分野は広範囲にわたる。MINKABU PRESS編集部の委託により本シリーズを執筆。
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