武者陵司「『消費は美徳』」思想のルネサンスを」<前編>

市況
2022年2月23日 12時30分

―経済敗戦の根本原因、デフレ容認心理の定着―

(1)日本に染みついた消極的経済心理

「潮が引いた時、誰が裸で泳いでいたかがわかる」は、カリスマ投資家W・バフェットの言葉であるが、コロナパンデミックは我々に意外な気づきを与えた。日本人の萎縮した経済心理が世界の常識からかけ離れているという事実である。

コロナ感染による健康被害は、感染者数や死者数を人口対比で見ると、日本はアメリカ・イギリスの10分の1弱で先進国では最低である。しかし、コロナ危機以降の経済の落ち込みと回復の遅れという経済被害では、日本はG7では最悪である。

この驚くべきギャップは、心理要因以外考えられないというのが、東大教授の渡辺努氏の分析である。パンデミック下においては、「コロナ感染を防衛したいという欲求」と、「経済活動を損ないたくないという欲求」の相反する二つ欲求の葛藤が生まれるが、両者のバランスにおいて日本は世界の平均から大きくずれている。それはとりもなおさず、日本においてアニマルスピリットが極端に棄損されているという事実である。

渡辺氏は近著「物価とは何か」(講談社選書メチエ)で、1960年代にIMF(国際通貨基金)において「世界には4つの国しかない、先進国と発展途上国、そして日本とアルゼンチンだ」というジョークが話題になったというエピソードを紹介している。日本の戦後の高度成長とアルゼンチンの長期凋落は他に例がないので、この2国のデータはどんな分析でも外れ値になるという意味であったのであるが、驚くべきことに50年後の今日においても日本とアルゼンチンの世界平均値からの極端な乖離は別の形で続いている。G20に参加している主要国の中では日本は唯一のデフレ国であり、随一の高インフレ国がアルゼンチンである。日本はその異質性を知るべきである。

●デフレが日本のアニマルスピリットを破壊した

しかし、この消極的経済心理は、日本に昔から備わっていたものではない。20年以上にわたって続いたデフレがアニマルスピリットを破壊したのである。バブルが崩壊して以降、リスク回避、挑戦の回避という選択が常に正しかったのであるから、それが経済心理として定着したのは無理からぬことである。「キャッシュイズキング」、「下山の思想」、「成長しない現実を受け入れる定常社会論」など、日本にだけ驚くほど多くの反成長主義の主張が生まれたが、そうした日本特有の議論はデフレが定着化したことで正当化されてきた。

デフレは売り手から買い手への所得移転なので、トータルでは中立である。買い手である消費者には有利に、売り手である企業には不利に働くので、消費者にはいいことだという議論をよく目にする。今時点だけを考えればその通りだが、それがどのような結末をもたらすのかが重要である。収益を損なわれた企業は雇用を減らし賃金を引き下げざるを得なくなり、結局失業が増え賃金は下がり、家計の消費を痛めていく。企業は経済社会で唯一の価値を作り出す主体なので、企業活動を損ないイノベーションを停滞させることは、長期的に大きな損失となるのである。

また、デフレは実質金利を高め、借り手をさいなむ一方、現金選好を高める。将来の貨幣価値が高まるので、人々は消費を先送りし貯蓄に励む。そして、投資を止め、現金をため込む。経済の血液である資本が循環しないのであるから、体はじわじわと蝕まれていく。これが失われた20年の実態であった。

(2) 経済は「放っておけばデフレになる」

●生産性上昇がデフレ圧力になるメカニズム

なぜ「消費が美徳」なのかを理解するためには、経済というものは、放っておくと自然にデフレになる性質を持っているという原則を確認することが大事である。社会が発展すれば技術も向上していくので、生産性が上昇する。すると供給量が増えるので、ものの値段が安くなる。いままでと同じ時間働いて、より多くのものが生産できるようになる。その分、需要が大幅にアップすればよいのだが、同じ程度にとどまったら価格は低下していくというのが、経済学の大原則である。

たとえば、需要が変わらず生産性が2倍になったとすれば、以前が200日/年だった労働時間は100日/年に減少する。残りの100日分の賃金を支払う必要がないから、企業収益が増える。そしてその分、製品価格を値引きできる。こうして価格を引き下げないと企業は競争に勝ち抜くことができない。一方、労働者は余るから賃金の引き下げ競争が起きる。つまり、経済というのは自ずとデフレに向かっていく性質を持っているのだ。

これは単に日本国内だけの問題ではなく、世界は「需要不足のリスク」に直面している。グローバリゼーションとDX(デジタルトランスフォーメーション)革命によって世界は空前の生産性上昇の時代に入り、供給力増加に弾みがついている。中国・インドなどの農民が近代工場労働者になり、飛躍的な生産性革命が進行している。そのスピードは18~19世紀の産業革命とは比較にならないほどである。産業革命時代の工場は、せいぜい蒸気機関程度の装備であったが、今日では電力、半導体などを駆使し、数百倍の能力の機械装備を備えている。空前の技術革新に加えて、全世界で数十億人という壮大な人口の新興国が、驚くほどの速度で生産性を引き上げている。

●指数関数的な技術と生産性の上昇を統計は捕捉できない

この生産性上昇の果実は経済統計ではほとんど捕捉できていないので、人々は需要不足とデフレリスクのマグニチュードを軽視してしまう。例えば写真撮影や音楽鑑賞は今や完全に無料になり、我々はほんの10年前の何倍、何十倍もの撮影活動や音楽鑑賞を楽しんでいる。しかし、写真フィルムと現像の産業、音楽記録版(レコードやCD)と再生機の産業はこの世から消え、相当の雇用が失われた。これを経済統計では経済活動の縮小(=価値創造の減少)と捉えるが、無限大の価格下落を使って実質化すれば、実は巨額の価値創造が起きているとの認識が正しい。

そうしたデジタル、ネット、AI化による産業と雇用の破壊(=巨額の目に見えない価値創造)がいたるところで起きている。筆者の親しい零細調査会社は昨年英文レポートの作成を無料の自動翻訳に切り替え、年間数百万円の翻訳コストを削減したが、それなどは、卑近な例である。

半導体の集積度の高まりを示すムーアの法則は2年で2倍(=10年で32倍、20年で1000倍、30年で33000倍)という指数関数的変化を続けているが、通信伝送容量の高速大容量化も同様に指数関数的進化を遂げている。このペースでコストが低下しているのであるから、その実用化による生産性の向上は想像を絶するものがあると言うべきで、それによってもたらされる便益の増加は計り知れない。と言うことは、統計で認識している以上の生産性の上昇(=供給力の増大)とデフレ圧力が、今日の世界経済を覆っているということである。

<後編>へ続く

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