需給の壺―金の需給②―【若桑カズヲの株探ゼミナール】

第23回:金の需給②
―崩れた「金利の磁石」、クジラたちの変節と2026年の沈黙が語る真実―
市場価格を動かす本質的な要因は、需要と供給、すなわち「需給」に尽きる。経済指標や金融政策、地政学リスクといった政治情勢のほか、他の金融市場の動向など、しばしば価格変動の要因として語られる指標は、あくまで需給を変動させる「きっかけ」に過ぎない。本連載では、この「需給の壺(ツボ)」を読み解くことを目的とし、マーケットにおける需給の基本構造とその変遷を追いながら、未来への洞察を試みる。
かつて、金市場には絶対的な経験則が存在した。それは「金価格は実質金利(名目金利-期待インフレ率)と逆相関する」というものである。利息を生まない金にとって、実質金利の上昇は保有コスト(機会費用)の増大を意味し、強烈な売り要因となる。事実、2000年代から新型コロナウイルスのパンデミック直後まで、金と米実質金利の逆相関は極めて高い精度で推移してきた。ところが、2022年に米連邦準備制度理事会(FRB)が急進的な利上げを開始し、実質金利がマイナス圏からプラス2%を超える水準まで急騰したにもかかわらず、金価格は暴落するどころか、過去最高値を更新し続けるという「怪現象」を見せている。
2022年以降の逆相関の崩壊は、もはや金が「投資効率」で選ばれる金融商品ではなく、現代の金融システムそのものに対する「信用リスク」をヘッジするための代替通貨へと変質したことを物語っているのだろう。投資家は、プラスの金利が得られるドル建て債券よりも、誰の負債でもない(カウンターパーティ・リスク[=取引相手の破綻などにより決済が不履行となるリスク]のない)金の「物理的な実在」に重きを置き始めたと考えられる。
◆「クジラ」の正体:中央銀行が買い続ける「真の理由」
この相関の崩壊を引き起こした主犯こそ、市場で「クジラ」と称される世界の中央銀行である。特に新興国の中央銀行による金買いは、単なる資産運用の一環というレベルを超え、国家の「生存戦略」へと昇華した。
図1 増加傾向を示す中央銀行他の需要量(トン)

出所:The World Gold Council
2010年以降の金の総需要量と中央銀行のシェア(図1)をみると、四角で囲んだ期間において、中央銀行のシェアが高まっていることが分かる。2011年から増加した背景には、2008年のリーマン・ショック以降、欧米諸国の大規模な金融緩和(QE)によって法定通貨の供給量が激増し、中長期的な通貨価値の下落やインフレへの懸念が強まったことが挙げられる。
また、2014年の増加は、ロシアのクリミア侵攻といった地政学的リスクが大きな要因であろう。もっとも、世界的な金の業界団体であるワールド・ゴールド・カウンシル(WGC)の「Gold Demand Trends Full Year 2014」レポートによると、2014年の世界の中央銀行による純購入量は477.2トンに達し、そのうちロシア中央銀行が単独で約173トンも購入していたという。侵攻によって欧米と対立したロシアが制裁リスクの回避手段として金を選択したと考えられる。
2018年にも中央銀行のシェアが高まっている。このときは米中貿易摩擦の激化により、世界経済が不安定化したことから資産保全需要が高まったとみられる。また、同年もロシアは約274トンという記録的な量の金を購入したという。これは、米国による経済制裁が強化される中で、資産凍結のリスクがある米ドル建て資産(米国債など)を売却し、政治的リスクの影響を受けない「物理的な安全資産」である金に振り替える戦略(財政上の要塞化)の一環であった。
◆資産凍結というドルの武器化
そして、特筆すべきは2022年以降の増加である。ロシア・ウクライナ紛争後、欧米はロシアの外貨準備を無期限で凍結した。更には凍結だけでなく没収してウクライナ支援に充当しようとする動きまで出たことが、非同盟諸国の中央銀行にとっての決定的な転換点となった。
バイデン政権下の米国は早くから「没収には法的な根拠がある」との立場をとり、G7各国にも働きかけた。しかし、そもそも他国の国家財産を自国の裁判権などで没収できない原則、つまり国際法上の主権免除があるほか、日本の外国為替及び外国貿易法などの法律に、他国の国有資産を強制的に没収して第三国に与えるための明確な法的根拠がないことから、わが国は慎重な姿勢を維持している。
こうした事例から中央銀行にとっての金は、もはやポートフォリオの分散対象ではない。「有事の際の最終的な決済手段」となった。欧米による金融制裁という「核のボタン」が押された際、他国の管理下にある外貨準備(ドルやユーロ)は一瞬で無価値化する恐れがある。しかし、自国の金庫にある金だけは、誰にも奪えない主権的な資産となる。この「サンクション・プルーフ(制裁への耐性)」としての需要が、金利の多寡を無視した強引な買い支えの原動力となってきたと考えられる。
◆2026年の違和感:地政学リスク下での「沈黙」
しかし2026年に入り、市場にはさらなる違和感が漂い始めた。米国・イスラエルとイランの直接的な緊張という、本来であれば金価格を垂直上昇させるはずの「最大級の有事」が発生したにもかかわらず、金価格の上昇トレンドは突如として頭打ちとなり、冴えない展開が続いているのである。戦争という最大の買い材料がある中で、なぜ需要が細っているのか。この「有事の金」の沈黙を解く鍵は、地政学そのものではなく、その裏側に潜む「エネルギーと金利の連鎖」にある。
図2 NY金(週足)

出所:みんかぶ
第21回で論じた「原油価格のシナリオ②」が現実味を帯びる中で、市場の関心は「有事の恐怖」から「コストプッシュ・インフレの永続化」へと急速にシフトした。つまり、現在の金市場を支配しているのは、地政学リスクによる「買い」を、原油高に伴う「金利上昇(期待利回りの上昇)」が相殺するという、強力な負のフィードバックである。
原油価格の上昇は、直ちにCPI(消費者物価指数)の上昇期待を跳ね上げ、債券市場において名目金利のさらなる押し上げを招く。投資家にとって、利息を生まない金は、有事であっても「高止まりする債券利回り」という強力な重力から逃れることができない。皮肉にも「最悪の地政学リスク(戦争)」が「最悪の金利負担(原油高経由の引き締め継続)」を招くとの懸念が、金の価格上昇を物理的に封じ込めていると考えられる。
◆クジラたちの変節:戦略的蓄蔵から「通貨防衛」の原資へ
また、2026年の違和感にはクジラたち(各国の中央銀行)の変節も挙げられる。これまで金価格の下値を支える「最強の買い手」と目されてきたクジラたちは、「ドル依存からの脱却」という長期的・戦略的な買いを主軸にしていたが、足元では一部の国々において、金の保有が「売却による流動性確保」という極めて短期的かつ切迫した目的に利用され始めている。
特にトルコ中銀は3月末までの約2週間で118トン以上の金を売却した。これは「蓄蔵一辺倒」の需給シナリオを根底から揺さぶるものである。2026年、トルコをはじめとする一部の新興国では、原油高に伴う貿易赤字の拡大と通貨安が、経済を極限まで圧迫した。本来、外貨準備として保有する金は「最後の砦」だが、自国通貨が暴落し、為替市場への介入資金(ドル)が枯渇した際、彼らに残された選択肢は「金の一部売却による現金化」しかなかった。
つまり、金価格を支える材料であったはずの地政学的な混乱(原油高)が、皮肉にも一部の中央銀行を「強制的な売り手」へと変貌させたのである。かつての「価格の守護者」が、自国の生存と引き換えに市場への「供給圧力」へと転じている構図が浮かび上がってくる。
◆需給のデッドロック:有事の買いを打ち消す「供給の壁」
この中央銀行による「通貨防衛のための売り」は、市場における投機筋のセンチメントにも冷水を浴びせた。また、2026年2月にこれとは異なる要因により極端な急騰と急落が見られたことも警戒心を強めた。そのきっかけは、米トランプ大統領がタカ派とみられるケビン・ウォーシュ元FRB理事を、次期FRB議長に指名してドル高を招いたことであった。これに中国の投機マネーを中心とした過剰な買いポジションの解消が加わり、地合いが急変したことでセンチメントが不安定な状態にあった。これらから投機筋は地政学リスクを材料視しながらも、金価格の上値追いに極めて慎重になっているのである。
市場は今、「地政学リスクによる逃避需要」と「原油高経由の金利上昇+中銀の通貨防衛売り」という、二つの強烈な風の間でデッドロック(膠着状態)に陥っている。特に中央銀行が市場価格の動向に関わらず「資金捻出」のために売りを出すことは、通常の需給分析を超えた「オーバーハング(潜在的な過剰供給)」として機能するだろう。米国・イスラエルとイラン間の緊張という好材料があっても価格が伸び悩むのは、この「中銀というクジラが吐き出す供給の壁」を市場が警戒している証左とみられる。
金の需給構造を解剖して見えてきたのは、金利という「重力」に加え、中央銀行の「変節」という新たな供給圧力が、ゴールドの咆哮を封じ込めている現実である。原油価格の上昇がインフレを煽り、金利を押し上げ、最終的に新興国の通貨を破壊する。その破壊された通貨を守るために、中銀が金を売る。この「負の連鎖」こそが、2026年の金価格を停滞させている真の正体であると言えるだろう。(第24回に続く)
証券会社で株式やデリバティブなどのトレーダー、ディーラーを経て調査部門に従事。マーケット分析のキャリアは20年以上に及ぶ。株式を中心に債券、為替、商品など、グローバル・マーケットのテクニカル・需給分析から、それらに影響を及ぼすファンダメンタルズ分析に至るまで、カバーしている分野は広範囲にわたる。
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