需給の壺―金の需給④―【若桑カズヲの株探ゼミナール】

第25回:金の需給④
―ドル覇権の綻びと中国という「第三のクジラ」―
市場価格を動かす本質的な要因は、需要と供給、すなわち「需給」に尽きる。経済指標や金融政策、地政学リスクといった政治情勢のほか、他の金融市場の動向など、しばしば価格変動の要因として語られる指標は、あくまで需給を変動させる「きっかけ」に過ぎない。本連載では、この「需給の壺(ツボ)」を読み解くことを目的とし、マーケットにおける需給の基本構造とその変遷を追いながら、未来への洞察を試みる。
前回(第24回)の本コラムでは、現在の金市場において中国が「第三のクジラ」となって需給構造を塗り替えつつある点を指摘した。1970年代以降のドル覇権は、原油決済と米国債への資金還流によって支えられてきたが、そのなかで中国は巨額のドル資産を抱える一方で「ドル依存から脱却できない」という構造的ジレンマを抱えていた。2008年のリーマン・ショック以降、中国は特別引出権(SDR)の拡充提案や金保有の拡大を通じて、ドル中心体制への対抗を強める。また、世界最大の金産出国である中国では、国内産出金が国外に流出しにくい制度が構築されており、その一部が中国の中央銀行である人民銀行に蓄積されているとの見方もある。そうしたなか、中国が金の保有量を高めてきている。今回は「その要因が一体何であるか」から掘り下げていく。
◆「第三のクジラ」の目覚め――人民銀行による金買いの加速
中国の金保有量データは1977年から存在しているが、公表頻度は不定期であり、月次で報告されるようになったのは2015年に入ってからであった。それでも2009年6月末と2015年6月末に大きく増加したほか、2022年以降にも購入ペースが明らかに加速している。金市場の国際的な業界団体であるワールド・ゴールド・カウンシル(WGC)のデータによれば、2022年末時点で2010トン(外貨準備全体の3.55%)、23年末で2235トン(同4.33%)、24年末で2279トン(同5.53%)、25年末で2306トン(同8.64%)、そして2026年3月には2313トン(同9.14%)と比率が急上昇している。

出所:WGC、四半期データ、再掲
この加速は偶然ではない。2022年にウクライナへ侵攻したロシアの外貨準備が凍結されたことで、「ドル建て外貨準備は地政学的リスクから完全には自由ではない」という現実が世界に示された。中国当局が、同様の事態が自国に及ぶ可能性を強く意識したとの見方は、市場関係者の間で根強い。もっとも、中国政府がその意図を公式に認めた資料は確認されていない。
◆民間部門という「見えない需要」――そして規制の影
しかし、中国の金需要を語るうえで、見落とせないのが民間部門の動向である。中国の個人投資家や機関投資家による金需要は、近年旺盛な伸びを示してきた。WGCの報告によれば、2025年通年で中国の金ETF(上場投資信託)への資金流入は過去最高を記録し、資産残高は年間243%増の2418億人民元(約334億ドル)に達した。この旺盛な投資需要を支えた主な要因としてよく挙げられるのは、①人民元建て金価格の好調、②不動産や株式といった市場の低迷など国内投資先の不足、③米中貿易摩擦の再燃といった貿易緊張や地政学的リスク、④税制改革による金の需要増、という4つである。だが同時に、こうした個人需要の背後には中国当局による様々な制度的制約と誘導が存在することも忘れてはならない。

出所:WGC、月次データ
輸出禁止と輸入管理によって、中国国内の金は外に出られない。上海黄金交易所(Shanghai Gold Exchange、SGE)への強制集中により、価格形成も人民銀行の監視下に置かれている。実際、人民銀行が金輸入ライセンスの発給量を調整すると、中国国内の供給量が変化し、その結果として上海市場の金価格がロンドン市場に対してプレミアム、あるいはディスカウントとなる局面が過去に複数回観測されている。市場では、これが資本流出抑制の一種として機能しているとの見方もある。また、2025年11月から投資目的以外の金引き出しに対して新たな付加価値税(VAT)負担が生じることになり、宝飾業界と投資家に混乱をもたらした。
つまり、中国の民間金需要は、単なる「自由市場での個人選択」ではなく、国家がその流れを制度的に制御した上で形成されているという点で、他国の需要と本質的に異なる側面を持っている。個人が金を「買える」のも、制度が許容する範囲においてである。
◆人民元の国際化と金――「デジタル人民元」という伏線
もう一つ、見逃せない視点がある。中国は「人民元の国際化」を長年の国家目標として掲げてきた。ドル建ての国際決済体制に依存しない独自のシステムを構築し、人民元を国際準備通貨の地位に引き上げよう、という戦略である。この文脈で金が果たす役割は、二重の意味を持つ。一方では、人民元の信認を高める「裏付け資産」としての機能。もう一方では、ドル覇権を迂回する決済手段としての機能だ。特に中東やアフリカ、中央アジアといった「グローバル・サウス」との貿易において、人民元と金を組み合わせた決済の枠組みが模索されている。
さらに中国は「デジタル人民元(e-CNY)」の開発・普及を着々と進めてきた。これは単なる電子マネーではなく、暗号資産で使われるブロックチェーンの技術をベースに国家が取引を完全に把握・管理できるデジタル通貨基盤であり、将来的には国際銀行間通信協会(Society for Worldwide Interbank Financial Telecommunication、SWIFT)を介さずに国際決済ができる「並行インフラ」となり得る。その移行期の「橋渡し役」として、金が重要な地位を占めるのである。
◆2026年の中国:「買い手」と「売り手」の間で
しかし、前々回(第23回「金の需給②」)で論じた2026年のデッドロック(膠着状態)の文脈において、中国もまた一枚岩ではない。人民銀行は長期的な金買いの方針を維持している。一方で、民間の動向には揺れが見られた。WGCの2025年9月レポートによれば、金価格の上昇トレンドが再開すると地金・コイン販売は改善したが、一部の投資家は価格上昇局面で売却して利益を確定させた。また、人民銀行がコロナ禍以降で最大規模の金融緩和策を実施したことで、上海総合指数が2024年9月に17%も上昇するという強いパフォーマンスを示し、安全資産としての金から資金を引き戻す動きにつながる場面もあった。
2025年末のVAT改革導入後には宝飾品需要が急激に落ち込み、通年のSGE出庫量は前年比11%減・過去10年平均比28%減という結果に終わった。2026年1月には一転、金ETFが過去最強の年初スタートを記録するなど、金市場における中国の投資家心理は税制改革や株式市場の環境に応じて激しく揺れ動いている。
しかし、米トランプ大統領が、量的緩和に否定的な立場を示してきたケビン・ウォーシュ元FRB(米連邦準備制度理事会)理事を次期FRB議長候補として支持したことで、市場では「流動性の回収」や「高金利の長期化」観測が急速に強まった。これを受けて米金利が上昇し、利息を生まない金には強い売り圧力がかかった。それをきっかけに同年1月、中国市場で金価格が急落し、NY金先物市場でも前日比10%超の下落に見舞われたのである。
◆需給の地図が塗り替わる日
金市場の需給を読み解く際、従来の分析は欧米の機関投資家と西側の中央銀行を主役としてきた。しかし今や「第三のクジラ」たる中国が、公的部門と民間部門の双方を通じて市場に深く組み込まれた以上、その動向を無視した需給分析は不十分と言わざるを得ない。
金利という「重力」、新興国中銀の「変節」、そして中国という「第三のクジラ」による複雑な相互作用が、近年の金市場を規定している。その根底にあるのは、1971年のニクソン・ショック以来、半世紀にわたって維持されてきたドル覇権の構造が、静かに、しかし確実に揺らぎ始めているという事実である。金価格の動向とは、単なる貴金属価格の変化ではない。それは、ドル・金利・国家信用・地政学という四層の需給が衝突する場所であり、現在の価格形成は、その地殻変動を映し出す最も敏感な鏡の一つなのかもしれない。(第26回に続く)
証券会社で株式やデリバティブなどのトレーダー、ディーラーを経て調査部門に従事。マーケット分析のキャリアは20年以上に及ぶ。株式を中心に債券、為替、商品など、グローバル・マーケットのテクニカル・需給分析から、それらに影響を及ぼすファンダメンタルズ分析に至るまで、カバーしている分野は広範囲にわたる。
株探ニュース