需給の壺―金の需給⑤―【若桑カズヲの株探ゼミナール】

第26回:金の需給⑤
―「金利の重力」か「ドル体制の信任投票」か。四層の需給が示す出口シナリオ―
市場価格を動かす本質的な要因は、需要と供給、すなわち「需給」に尽きる。経済指標や金融政策、地政学リスクといった政治情勢のほか、他の金融市場の動向など、しばしば価格変動の要因として語られる指標は、あくまで需給を変動させる「きっかけ」に過ぎない。本連載では、この「需給の壺(ツボ)」を読み解くことを目的とし、マーケットにおける需給の基本構造とその変遷を追いながら、未来への洞察を試みる。
前回(第25回)は、中国という「第三のクジラ」の全貌を解剖した。人民銀行による金買いの加速、国内産出金を囲い込む制度設計、そしてデジタル人民元を含む「脱ドル化の長期戦略」という三つの層が絡み合い、金市場の需給地図を根底から塗り替えつつあることを示した。そして結びに、金市場とはすなわち「ドル・金利・国家信用・地政学という四層の需給が衝突する場所」という言葉を置いた。
今回はその言葉の続きを問う。この「四層の衝突」は、いつ、どのような形で解消されるのか。言い換えれば、「金価格の出口はどこにあるのか」という投資家が最も切実に知りたい問い、これに向き合うことにより金の需給を巡る考察を締めくくりたい。
◆足元のポジション:市場は「疑心暗鬼」の中にいる
出口シナリオを論じる前に、足元の市場参加者がどのような「姿勢」でいるかを確認しておこう。米商品先物取引委員会(Commodity Futures Trading Commission、CFTC)が毎週公表する建玉明細(COTレポート)によれば、金先物の投機筋ネットポジション(非商業系トレーダーの建玉)は、2025年末から2026年初にかけて縮小傾向にある。2025年9月に NY金先物が1トロイオンス=4000ドル手前まで上昇する局面では、ネットロングは 26万枚台まで膨らんでいた。だが、その後は急縮し、1トロイオンス=5000ドル台に上昇する2026年2月時点では 16万枚程度まで落ちた。金価格が歴史的高値圏にあったにもかかわらず、投機筋が上値を積極的に追えていない。この「買い疲れ」こそが、2026年の沈黙(戦争という最大の買い材料がある中での需要の細り)の根底にある市場心理を映し出している。

重要であるのは、これが意味する構造変化だ。かつて金価格の先行指標として機能してきた CFTC のネットポジションが金価格と連動しなくなりつつある。その理由として指摘されるのが、上海黄金交易所(Shanghai Gold Exchange、SGE)や香港先物市場といった中国独自の金市場の台頭と、人民元建て金価格(XAUCNH)の影響力の拡大である。「センチメントの温度計」がCFTC の投機筋一つではなくなった今、従来の分析ツールだけでは市場の全体像を捉えきれない局面に入っている。
◆出口シナリオA:「金利」というダモクレスの剣(繁栄の影に潜む不安や恐怖)
第22回から繰り返し確認してきたように、金利は金にとっての「重力」である。インカムゲインを生まない金にとって、実質金利の上昇は保有コストの増大を意味する。近年の状況を確認すると、米連邦準備制度理事会(FRB) はインフレ抑制を優先すれば雇用が犠牲になり、雇用を重視すればインフレが高進しかねないというジレンマを抱えている。そうした中、一時は2026年4~6月期以降に利下げが実施されやすい環境が整うとの見方もあった。だが、直近の市場は利上げ方向を向き始めている。
2025年12月のFOMC経済見通し(Summary of Economic Projections、SEP)では、参加者 19 名のうち7名が 2026年内の利下げは不要と予想した。「インフレ再燃なら利下げなしの可能性も浮上し得る」という程度であった。しかし、関税の価格転嫁の継続や中東情勢の悪化による原油価格の高騰などを背景に、2026年の米国雇用や製造業の景況感は堅調、消費者物価指数(CPI)は高止まりが続くとの見方から、市場では年内利上げがコンセンサスになりつつある。
ここにスーパー・エルニーニョという、さらなる変数が加わる。2026年後半にエルニーニョが発生することは確実視されている。加えて米海洋大気局(National Oceanic and Atmospheric Administration、NOAA)は2026年6月、スーパー・エルニーニョ(非常に強いエルニーニョ現象)が11月から27年1月に発生する確率は63%と発表しており、穀物の生育不良など世界の食料供給への影響が懸念されている。日本総研の試算によれば、スーパー・エルニーニョ現象によって海面水温が平常時から 2℃上昇する場合、食料価格の前年比は 13%ポイント押し上げられるという。原油高に端を発したコストプッシュ・インフレが 生産者物価(PPI)から CPIへと着実にシフトしつつある現在、この食料インフレが重なれば、中央銀行に対する引き締め圧力はさらに強まることになるだろう。
「利下げではなく、利上げ」という新たな懸念が現実化することで、金利という「重力」は一層強まり、金価格の上値は重くなる。逆に、雇用が悪化して FRB が利下げに転じれば、この重力は消え、金には強烈な追い風となる。シナリオAは「金利の行方を見極めるまで、市場は動けない」という膠着の構図を示すものだが、その膠着は崩れ始めているのかもしれない。
◆出口シナリオB:インフレ連鎖と通貨危機の「負のフィードバック」
第23回で述べたとおり、トルコ中央銀行は2026年3月末までの約2週間で118トン以上の金を売却した。これはスポット的な出来事ではなく、一つの構造的問題の現れである。原油高はインフレを輸出する。輸入依存度の高い新興国では、エネルギーコストの上昇が貿易赤字を拡大させ、通貨安を招く。通貨安はさらなるインフレを呼び、中央銀行は為替防衛のために外貨準備を取り崩さざるを得ない。そしてドルが枯渇したとき、残された選択肢は「金の売却」である。
ここに先述したスーパー・エルニーニョが加わると、この連鎖はさらに強まる。農産物輸出に依存する新興国(東南アジア・南米・アフリカ)の生産が落ち込めば、輸出収入が減少し、外貨不足に拍車が掛かる。ASEAN(東南アジア諸国連合)や中国では水力発電への依存度が大きい。エルニーニョ現象によってこれら諸国の主要な河川の水位が低下すれば、電力不足が発生し、製造業やサービス業の生産活動が制約されるほか、電力価格の上昇を通じて食料以外の分野でもインフレ圧力が強まる恐れがある。
つまり、「通貨危機的状況が落ち着けば、中銀の売り圧力も一服し、金価格への重荷が取れる」という楽観的なシナリオが成り立つためには、その前提として原油高・インフレ・気候リスクという三つの連鎖が収束する必要がある。シナリオBが示すのは、「中銀の売り手転化という急性症状の背後に、より根深い構造的慢性病が潜んでいる」という現実である。
◆出口シナリオC:ドル覇権の「臨界点」とその引き金
最後に、最も長期的で構造的なシナリオを論じよう。それはドル覇権そのものの「臨界点」である。国際通貨基金(IMF)の外貨準備の通貨構成統計(Currency Composition of Official Foreign Exchange Reserves、COFER)によれば、ドルの世界外貨準備に占めるシェアは2001年の72%から、2025年末には約57%まで低下している。これは「崩壊」ではなく「侵食」であろう。中国の国際決済システム(Cross-Border Interbank Payment System、CIPS)は2024年の取引量が前年比43%増と急成長を遂げ、2025年の年間取引量は180兆人民元(約25兆ドル)に達した。中国によるSWIFT(国際銀行間通信協会)代替インフラの整備は着実に進んでいる。
では、この緩やかな侵食が「臨界点」に達するためには、どのような「引き金」が必要か。
①中東の原油決済に非ドル建てが定着
ホルムズ海峡の緊張によって非ドル建てエネルギー取引の実験が繰り返されれば、代替決済インフラの「実証」が積み上がる。
②BRICSの決済インフラが「実験」から「実用」へ移行
BRICS加盟国は合計で約6000トンの金を保有しており、これは世界の中央銀行保有量の17%強に相当する。2025 年末に試験的に導入された「ユニット」と呼ばれる決済単位は、40%を金、残りをBRICS加盟国通貨で構成するという設計だ。このような金裏付け型の決済手段が一定規模で流通を始めれば、金の「通貨としての需要」が構造的に高まる。
③米国の財政・債務問題が深刻化
米国の財政赤字が制御不能になり、ドル建て国債の信認が揺らいだとき、各国中央銀行は外貨準備の「ドルからの代替先」を本格的に探し始める。金はその最有力候補である。
④FRBの独立性が毀損
新FRB議長の人事を巡る政治的圧力が高まり、金融政策の信頼性に疑問符がつく事態となれば、「中央銀行そのものへの不信」という新たな金の買い材料が生まれる。
ただし、ドルから準備通貨に移行するには、歴史的に数十年の時間を要し、信頼できる代替手段が必要である。シナリオCは「いつか来る」シナリオではなく、「じわじわと近づきつつある」シナリオとして理解すべきである。
◆金価格は「ドル体制の信任投票」
以上、三つの出口シナリオを整理した。シナリオAは金利の方向性が定まるまでの膠着が崩れつつあるという短期的視点。シナリオBはインフレ連鎖と気候リスクが中銀の行動様式を変容させるという中期的視点。シナリオCは国際通貨体制の地殻変動という超長期的視点である。
これら三つが重なる交点に、現在の金市場は立っている。だからこそ、価格は動くようで動かない。「利上げリスクによる売り」と「脱ドル化需要による買い」が相殺し、中銀の戦略的買いと通貨防衛的な売りが綱を引き合う。膠着は「需給の均衡」ではなく、「複数の巨大な力が拮抗している不安定な静止」であり、それが動き始めているのかもしれない。
一つだけ確かなことがある。現在の金価格は、もはや単なる貴金属の価格ではない。それは「ドル体制への信任投票」の結果を映し出す鏡である。金が高いとき、それは誰かが「ドル体制の持続性」に疑問を呈していることを意味する。金が伸び悩むとき、それはまだ「ドルという秩序の外側」を想像できる投資家が少数派であることを示している。その「少数派」が、どのくらいの速度で「多数派」になっていくか。それを測り続けることが、これからの金市場を読むうえで最も本質的な問いとなるだろう。(第 27 回に続く)
証券会社で株式やデリバティブなどのトレーダー、ディーラーを経て調査部門に従事。マーケット分析のキャリアは20年以上に及ぶ。株式を中心に債券、為替、商品など、グローバル・マーケットのテクニカル・需給分析から、それらに影響を及ぼすファンダメンタルズ分析に至るまで、カバーしている分野は広範囲にわたる。
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